白洲正子

一番面倒だったのは木の名前である。それは読んでくださればわかると思うが、たとえば栃の木は橡とも書くが、橡はツルバミとも訓み、その場合は櫟(くぬぎ)の古名で、櫟はまたイチイとも訓むのである。いうまでもなく、それは名前が先にあったところへ漢字を当てたからで、牧野博士の植物図鑑が平仮名で通してあるのはその混乱をさけるためであった。 編集部の意向では、木のことを書くのだから、なるべく木偏で通してほしいということで、竹や蔦についても述べたいことはあったが割愛した。同じ意味で、シナの木には科の字を当てるので、省かなくてはならないと思ったが、藍染めにシナ布を使っている菅原匠さんから、東北地方では榀の字を用いていると聞き、安心して取りあげることができた。 それでも気になるので漢和大辞典で確かめると、榀は国字(日本で作った漢字)で、コマイと読み、軒のたるきに渡す細い材のことをいうと書いてある。万事につけてそんな風に漢字と国字が交り合い、一つの文字にいろいろな訓みかたや意味があるので、それをしらべたり聞き合わせたりするだけでもずいぶん手間がかかった。 … それはとにかく、木の名ひとつをとってみても、実にあいまいで、雲をつかむようなところに日本語の難しさがあり、大げさにいえば日本の文化の特徴があると知った。考えてみれば当たり前のことだが、当たり前のことも実際に書いてみないと中々解りにくいものである。もしかしてこの本を書いてみて、それが唯一の私の得たことであったかもしれないが、けっしてつまらないことではないと信じている。